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ビザ問題

結局、事業用操縦士免許だけでは仕事はなく、インストラクターの資格を取ることを進められた。オーストラリアには日本人インストラクターが少なく、これから日本人がもっと訓練しにくるだろうということを聞いて19歳でインストラクターになった。若い頃からいい気になってしまうともっと上に進むことを忘れてしまう。今いる場所に心地よくなってしまうと、まだ先があるのを忘れて努力するのを休んでしまう。地元の新聞や航空雑誌の記事になったりしたけれど、若くてエネルギーのある時にもっともっと叩かれてけなされて悔しさからパイロットへの思いをもっともっと募らせてまっしぐらにパイロットの道に進んでいたらよかったかもしれない。おまえにはできるといわれて期待にこたえてあげようと思うパワーよりも、おまえには無理だといわれて悔しさから見返してやろうというパワーのほうが自分にとっては大きい。
運良く、訓練をしていた学校には日本人生徒が数人いたので、生活に困らない程度の給料がもらえるくらいは働くことができた。しかし、学生ビザでの滞在だったので、訓練が終われば帰国しなくてはいけない。それか、ビジネスビザを申請して取ってもらうか。この時は飛行教官で永住権の申請ができると知らなかったので、自分の中ではビジネスビザしか選択肢がなかった。ビジネスビザは、オーストラリアで仕事始めるから、ビザちょうだいと言えばもらえるような簡単なものではなく、仕事があっても簡単にはもらえない。その仕事がオーストラリア人でもできることであれば、外国人に職はまわってこない。つまり、オーストラリア人のなかでその職に適切な人がいなければ外国人を連れてきてビジネスビザをあげましょうと言う話しで、会社側にもお金が掛かるのでそう簡単にビジネスビザは取れるものでもない。もちろん、日本人相手の職業なら取りやすいが、今では日本語を話すオーストラリア人もだいぶ増えてきている。自分の時も、学校が求人を出し、オーストラリア人で日本語の話せる飛行教官が現れた為にビジネスビザは諦める結果となり、だいぶ先の方まで見えていたパイロットの道が閉ざされる結果となった。しかし、ここで諦められるわけが無い。ビジネスビザが取れないのなら、学生ビザで行ってやるということで、他の訓練校で学生ビザを申請して計器飛行(悪天候でも飛行できる資格)を取りにアデレードへと向かうことになった。それを思いたったのは航空チケットの有効期限が切れる1〜2週間前。学校側は最近留学生を扱えるようになったばかりで問題発生。オーストラリアから速達で送ってもらった必要書類が出発2日前ぐらいに到着、出発前日にビザを申請しに行ったが、留学生受け入れることのできる登録番号がみつからないと大使館の人に言われ、ファックスでも良いのでアデレードから登録番号を記したものを送ってもらう必要があると言われた。家には帰って、また来る時間はないので、公衆電話からアデレードに電話して登録番号について聞かなければならなかった。しかし国際電話をかけるだけの持ち合わせの金がなかった。運良く、実家には電話が2回線あったので、実家からアデレードに電話してもらって、自分からも、もうひとつの回線に電話し、父親が2つの受話器をさかさまに合わせてアデレードの人と会話をした。そんな大変な電話の方法でなんとか話しは通じ、大使館にファックスを送るまでにこぎつけることができた。そしてビザはおり、次の日に再びオーストラリアへと渡った。なんとかなるもんですね。

アデレード

とりあえず、サンシャインコースとで一緒に住んでいたニールとアンの家へ置かせてもらっていた荷物をとりに向かった。すぐにアデレードまでのバスチケットを取り、引越しの用意をしたのはいいけど荷物が多くて大変。とりあえず、軽いものだけ郵送して、サーフボードのケースに詰められるだけ服を詰め、スーツケースとでかいスポーツバッグには本など重いものを詰めれるだけ詰め込んだ。郵送で送るものが重いと料金が高いので、重いものは持てるだけ持とうとしたが、サーフボードのケースと合わせると歩けないぐらい重かった。スーツケースにはタイヤがついていても、オーストラリアの舗装道路はひどいもので、小さなタイヤは転がってくれない。バス停まで徒歩15分。途中で荷物が持てなくてサーフボードとスポーツバッグを道端におろして置き去りにし、バス停まで2往復してなんとか荷物は持っていくことができた。バスの時間は夜中の3時頃で、田舎なのでバス停の明かりも街灯もない。バスが来たと思ったら、心配していたことが起こった。バスがバス停を通り過ぎてしまった。すぐに気付いてくれてちょっと離れたところに止まってくれたが、荷物をまた移動しなければならなかった。ちゃんと予約しておいたのに。ほんと、このバスはよく使ったけど、バス停を通りすぎて次のバス停で下ろされた事もあった。田舎なのでバス停をとおりすぎれば戻るのに真っ暗な道を30分は歩かされた。暗くて何も見えないので1メートルぐらい深い穴に落ちたこともある。
大変な思いをしながらバスに乗ること2日ぐらい。途中どこの町にも止まらず、直行でアデレードに向かった。
アデレードに着いたら、とりあえず宿さがし。バス停の広告をみてバックパッカ−ズに電話して迎えにきてもらった。この日、初めてバックパッカ−ズ体験をした。

初めてのバッパー

とにかくお金を節約しなくてはいけないので、バックパッカ―ズといわれる安宿に泊ることにした。まったくの他人と同じ部屋で泊るのは初めての経験なので、物が取られないか心配したり、臭い部屋の匂いが気になったりして長居はできそうもなかった。初めて来たアデレードは何もなく、友達も知り合いも誰一人いないし、つまんない町という印象だった。自分にはサーフィンのできるビーチがあれば他は何もいらなかった。というわけで、次の日に電車に乗ってビーチまで行くことにした。

濁った海

次の日にさっそく海へ行ってみると、きったねえ〜。こんな海、オーストラリアじゃねえよと思うほど茶色く濁っていた。アデレードは入り江になっているのでサーフィンのできる波が立つことはない。サンシャインコーストではビーチまで徒歩5分ぐらいのところに住んでいたので、毎朝、毎夕、日課のようにサーフィンを楽しんでいた自分にとって、アデレードの海を見た時のショックは大きかった。ところが、波は立たないものの、夏になるとその濁っていたことが嘘だったかのように綺麗に透き通る。そして、車で少し行けば波のあるビーチへ行くこともできた。街にはサーフショップもある。

訓練開始

1997年7月30日、訓練開始。訓練を受けた学校、ロスエアーは、当時オーストラリアで唯一ISO(国際標準化機構)の規格を満たしている飛行訓練校でセスナ機のディーラーでもあった。残念ながら経営者が変わって今では潰れてしまってもうない。計器飛行を教えてくれたインストラクター、フィルはもうすぐ10000時間の飛行時間に達するベテラン、教官長、ケビンはオーストラリアでも指折りの資格保持者だと聞いた。アデレードの国際空港は他の都市の国際空港と比べて飛行機の数が少なく、訓練しやすかった。ブリスベン国際空港に着陸する時は、後回しにされ、長い時間待たされた。ジャンボジェットと同じ滑走路を着陸するのはなかなか楽しい。ジャンボジェットが横でハエみたいな自分の操縦する飛行機が降りるのを待っていたりする。残念ながら今は着陸料が高く、訓練で国際空港に着陸する機会はあまりない。
実技訓練のほうは問題なく順調に進んだが、またしても学科試験でひっかかった。でも今度は前回の事業操縦士の学科試験で懲りたのか、1日10時間ぐらい勉強した。食事とトイレとシャワーと睡眠の時以外は、ひたすら教科書を読んで読んで読みまくり、インストラクターを質問攻めにした。電車の中でも、バスの中でも、歩きながらも教科書をひたすら読んだ。ところが、合格点が80点のところ、76点で落ちてしまった。あれだけ勉強したのにまだ足りないか。何が悪かったか言うと、理解はしていても数字や名称などの暗記まではできていなかった。なので、また最初から教科書を読み、今度はひとつひとつ覚えるべきところを繰り返し読んで学科試験に再度のぞんだが、結果はなんと15点。A、B、C、Dの選択問題なので、答えを書くところがずれたかなと心配しながらも絶対に何かおかしいと思うこと数日、航空局から間違い訂正の手紙とともに92点の合格通知書が送られてきた。
訓練は問題なく進み、計器飛行の資格を取得することができた。

インストラクター復帰

ちょうど計器飛行の訓練が終わった頃、偶然にも日本人医師が飛行訓練の問い合わせに来た。日本人医師、小浜さんは海洋危険生物の勉強と日本でのフライングドクターサービスを開始させようとオーストラリアに勉強しに来ていた。フライングドクターサービスとは、町から遠く離れたところで病人やけが人が出た場合に出動し、飛行機ですっとんでって、治療する、または町に連れて帰ってきて病院へ運ぶなどの医療サービスで、オーストラリアでは、普通の道路(田舎の)がとつぜん滑走路になっていたりする。操縦士免許を取得しようと言う理由は、フライングドクターサービスでパイロットに何かあった場合に自分も飛べるようにしておく為ということだった。確かに、フライングドクターサービスの看護婦も飛行を習いに来ることもある。
というわけで、日本人の特典で小浜先生に操縦を教えることができるようになった。そのまえに期限の切れていたインストラクターの資格を再取得することとなった。ケビンや、フィルからも教え方をまた学び、いろいろと勉強になった。

就職活動

またまたビザ問題。訓練が終わればビザは切れる。というわけで、どこかで仕事を見つけるしかなかった。航空雑誌に載っている広告を見て片っ端から電話したり、ファックスを送ったり、手紙を送ったりしても、そう簡単に仕事が見付かるわけがない。ところが、ある一社から返事が来た。シドニーにあるヘリコプター訓練校。もともとヘリだけしか扱ってなかったのだか、新しく、飛行機も広告に加わっていたので連絡をしてみた。シドニーへ電話してみると、とにかく来て面接して簡単なテストみたいなものもするからと、けっこう厳しそうな感じだったが、とりあえず、教科書を片っ端から読み直して行ってみることにした。行ったら行ったでテストも何もなく、すでに決まったような話しの進み方で仕事が決まってしまった。しかし、会社はまだまだ成長中で給料は出ないと言う。給料がでないのはこの業界しょうがない。それでも生活に必要なものは出すと言われたのでビザはもちろん、生活費ぐらいはでるのかと勝手な解釈をしていたが大間違い。仕事が始まればヘリのことばかりで飛行機の話しは殆ど出ない。生活費を稼ぐにもバイトはしてはいけない。会社の仕事がおろそかになるからという理由らしい。ということで、いつまでたっても飛行機は見えてこないので見切りをつけて辞めさせていただくことにした。仕事を始める前に、一回日本に帰ってワーキングホリデービザを取って来いと言われていたので、このときのビザはワーホリビザ。この時、もうオーストラリアで職を探すのは難しいと言うことを覚悟していた。そして、帰国前にせっかくのワーホリビザをつかっていつまた戻ってくるかわからないオーストラリアを旅行することにした。

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