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オーストラリア大学留学
このページでの情報は自分が大学に在籍していた時期のものです(2000年2月〜2002年11月)。
これからオーストラリアの大学に留学しようとしている人のために大体のアイデアを得てもらうもので、全ての情報は今現在のものと一致するとは限りません。


エディスコーワン大学はオーストラリア50ドル紙幣(プラスチック幣?)に描かれている女性、エディス コ―ワンの設立した大学です。ここではエディスコ―ワン大学についての情報を基にしていますが、他のオーストラリアの大学に留学する人も、始業日や、必要とされる英語力、授業料などのだいだいの予測がつくと思います。

英語力 TOEFL 550点 (コンピューターでのTOEFLの場合は213点とエッセイの評価で“5”)
または、IELTSで6.0から6.5点
英語力が足りない人はELICOSと言う大学入学準備コースのようなものを殆どの大学で用意しています。 
入学願書提出期間 1学期 11月末
2学期 5月末
学期 1学期 2月から6月 
2学期 7月から11月
学費 年間$AUD11000−$AUD16000(オーストラリアドル)


学歴?実力?

海外では学歴は関係ない。学歴関係なしに、実力のある者が前に進むという考えを持っていた。たしかに、そうかもしれない。しかし、それは実力が飛びぬけてある場合に限られることが多いし、同じ実力がある人間が二人いれば、学歴のある方が有利になるのが普通だ。

飛行機の教官、計器飛行など、就職に必要な殆どの資格を取得したにもかかわらず、なぜ大学に行く事を決めたか。
その理由はいくつかある。@仕事がなかったから。Aビザが必要だったから。Bシンガポール航空パイロットの自社養成施設のマネージャーと話をしたから。

@の“仕事がなかったから”は、Aのビザと関係している。働くことのできるビザが無い外国人を雇う会社はほとんどない。特に航空業界。若い職の無いパイロットが有り余ってる状態で、外国人に仕事が回ってくるはずがない。例外として、日本人生徒のいる学校の飛行教官があるが、日本人生徒がいることが前提だ。しかし、パイロットになるには英語力が必要不可欠で、英語ができてあたりまえ。できなくてはいけない。なので、日本人生徒がいる学校でも日本人の教官を雇ってくれるとは限らない。

外国人が海外で働くには普通、ビジネスビザが必要となる。オーストラリアではワーキングホリデービザ、学生ビザ(週20時間まで)でも働くことができる。
ビジネスビザを取得するには、普通、会社の必要としている技術を持つ者がオーストラリア人の中で見付ける事ができないという理由が前提となり、仕事があればビザがおりるという簡単なものではない。

ワーキングホリデービザや学生ビザがあったところで、教官の資格を持っていてもどこに日本人生徒がどこにいるのか?どこから生徒を連れてくるのか?日本に代理店を持つとすれば、日本にスタッフがいないと難しい。広告にもお金が掛かりる。自分は30万ぐらい広告料につかって広告出すのやめることにした。会社であればたいした広告料ではないのだろうが、個人でやっている自分にとっては結構な額だった。そして、ワーキングホリデービザはホリデー(休日)が前提となり、働くためのビザではない。休日を有意義にする為に、金がなくなったら働けば?というビザなのだ。学生ビザではたったの週20時間しかはたらけないし、学生はそんなに暇ではない。特に留学生。英語での授業についていくのに必死だし落第すれば追加の授業料が必要となる。生活費も余分に必要となる。

というわで、働けるビザ(永住権)がほしかったのです。パイロットの資格だけでも永住権を申請することができるが、知ったのが遅かった。最後の手段は第3教育、つまり、大学卒の学士号を取得し、永住権の申請資格を取ることだった。(永住権については永住権のページで)パイロットの下積みは給料無しでも飛行時間が稼げれば良いというもので、給料無しで飛んで、飛んでいないときに他のアルバイトをして生活するというのが一般的なもの。つまり、永住権さえあれば、自分も特に難しい技術の必要とされないレストランなどで働きながら、飛行時間を稼げるというわけだ。給料なしでもよければ仕事は探せばある。朝の3時起き、4時起きは覚悟しなくてはいけないが。

大手航空会社

大学に行くことを決めた理由そのB
シンガポール航空の自社養成施設が、今自分の勤務する学校のある空港にある。まだ大学進学を決める前、空港に通うのにバス停から約1.5キロの道のりを歩いていると、たまに車が止まってくれて乗せていってくれた。その車の一台の運転手がシンガポール航空で働く教官だった。彼から聞いた話によると、シンガポール航空ではパイロットを多数募集するということで、マネージャーの名前をおしえてくれたので、次の日に早速自社養成施設にアポ無しで飛び込み、タイミングよくマネージャーがいた。とくにアポは取っていないんだけど、パイロットを多数募集するって聞きましたので、詳しく話を聞かせてくださいと言うと、親切にオフィスに招いてくれて、話がはじまった。誰から話を聞いたのかから始まり、自分の飛行時間や、学歴などの話をした。彼が言うには学歴は大学を卒業していたほうがいいと言うことだった。OK。遅くなる前に大学出ておこう。そして、西オーストラリア州で唯一航空科のあるエディスコ―ワン大学に問い合わせた。
会話の中に、シンガポール航空の自社養成では、シンガポール人、マレーシア人、香港人しか採らないと言っていたが、それはあまり気にならなかった。

そして、もうひとつ、永住権の特典は、オーストラリアの航空会社にも就職活動できるということと、アジアの航空会社でオーストラリア人のパイロットをを雇っているところは多いい。

入学?帰国?

さて、大学に行くにしても問題は残る。はたしてどこから学費を出すか?考えた方法は、日本へ帰国して1〜2年働く。または期限の切れていた飛行教官の資格を取得して永住権を申請する。永住権がとれれば、週に20時間という制限なしに働けるし、オーストラリア人になってしまえば、政府から学費を借りることができるかもしれないし、フルタイムの仕事に就くまで返金しなくてもいいというすばらしい仕組みがある。そこで、父親から、日本でも学費を借りる事ができるかもしれないという情報が入ってきました。その名も国民金融公庫。とりあえず、入学願書を出し、入学許可がでるか待った。何の試験もなしに入学許可は出て喜びながらも日本に帰らなくてはいけないか、学費が借りれるか、はらはらしながら待っていた。そして、授業料支払い期日までに運良く学費を借りることができ、ニッポンばんざい!。そして、今、卒業してお金を貸してくれた日本を離れようとしています。でもまあ、この国際社会の世の中で日本の人材を海外に派遣してると思えばいいか。もちろん、借りた金は返すけど。今となってはドル高になってほしい。がんばれオーストラリアドル。

入学式でヘビ男

入学式はオーストラリア人と留学生は別々だった。オーストラリアの大学に入学式のようなものがあるのかわからないが、入学式というものでもなく、ただのオリエンテーションだった。一番乗りで着いてしまった。後ろのほうへ座ればよかったものの、なぜか一番前に座ってしまった。一番前でも真中は避け、端の目立たない方へ座ったはずだったが、マレーシアで買った偽のリーバイスが目立ったのか、“そこの君、前ヘどうぞ”とクロコダイルダンディーに言われてしまった。クロコダイルダンディーを偽ったおっさんは、オーストラリアのヘビを紹介しに来ていた。ヘビは良くても人前に出るのは得意じゃない。まあでも断る訳にもいかずに前へ出たら首にヘビを巻かれて、フラッシュの嵐でちょっとクロコダイルダンディー気分。その日だけはSnake manとして名が知れたが自分は2年生に編入だったのでみんなとはそれでさよなら。たまに大学内で会うとちょっと話すぐらいだった。留学生あてのニュースレターにヘビ男の写真がのっていて驚いた。

ギブアップ

さて、副専攻の選択。航空学だけ勉強すればいいのかと思ったのに、なんだよminorって?まさか副専攻で、ほかの科目も勉強しないとは。まあ、しょうがない。やらないと卒業できないならやるしかないけど、問題は、いっぱいある科目から何を選択すれば良いのか。高校の時は勉強は好きではなかったので選択はもちろん体育。でも今この歳になって、やっぱり為になる事を勉強したい。そして、パイロットに必要とされる学力は何かと訪ねたところ、ビジネスマネージメントか、コンピューターサイエンスだと言うことだった。理由はパイロットは飛んでいるだけとは限らず、上のほうの管理職のレベルにいけばビジネスをマネージしなくてはいけない、または、コンピューターのプログラミングなどしている人もいると言う。それなら、コンピューターは目が悪くなりそうだし、ビジネスマネージメントは聞こえがいいし、パイロット以外の世界でも役に立つ、ということで、ビジネスマネージメントにしたのが大失敗。授業で先生の話してることがまったくわからない。理解不能。家で復習すればいい?無理です。1〜2センチぐらいのプリントの束をくれて読めという。1ページ読むのに何十分かかると思ってるんだよ。言い訳を言えば、2年生に突然入ったので、1年と2年の授業をいっぺんにやらなくてはいけなかった。1年の授業も出たけど、かなりの危険を感じた為、さっそく副専攻をコンピューターサイエンスに変えることにした。大きな飛行機は殆どコンピューターだし、パソコンとは違ってもテクノロジーになれるいい機会。本当は中国語を勉強したかったが無くて、語学が好きなのでフランス語をやろうと思ったがどうせ使わなければ勉強してもわすれるのはわかっていたので、今もこれからもどこでもだれでも使っているコンピューターにした。でもコンピューターもまた変化が早くて困るけど。


バッパ―生活 

バッパ―を知らない人の為に説明しよう。バッパ―とはバックパッカ―ズのことで、まあ間単に言えば安宿。普通は一部屋に4人から10人ぐらい分の2段ベッドが置いてあって他人と一緒に生活する宿。たいていはキッチンがついていて自炊することもできる。
なぜその、バッパ―から大学へ通わなくてはいけなかったか。それは、金がないから。オーストラリアの貧乏生活で一番金がかかるのは家賃かもしれない。そして、その家賃をどうやりくりしていたかと言うと、バッパ―の掃除をすることで、宿代をただにしてもらっていたわけだ。通称フリアコ。free accommodation。なので、生活にかかる金は食費と交通費ぐらい。食費は安かった。食事が質素だったから。ご飯に塩だけの日もあった。キャベツと小麦粉だけで、卵なしのお好み焼きが夜ご飯だったこともある。バッパ―は旅行者の出入りが激しいので、あまった食料を置くところがあって、出て行く人が食料を置いていくことがある。それをすかさず手に入れる。そんなに金がないなら働けばいいじゃないかということで、学生ビザが取れてすぐにちかくのラーメン屋と寿司バーで働きはじめた。家の掃除もして3つのバイトを掛け持ちしたが、大学があるので労働時間は長くなかた。それでもフリアコしていたので、たったの週$150(1ドル70円で計算したら10500円)ぐらいのかせぎでもでもあまるぐらいだった。1セントでも安く済ませようとしていた自分が、カフェに通うこともできるようになった。

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