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資金稼ぎ

というわけで、オーストラリア旅行でいろんなことを体験して日本へ帰国。自転車旅行も、ヒッチハイクも今となっては良い経験だ。就職に失敗しなければできなかったことなので、まあいいか。日本に帰ってすぐにバイト探し。時給が良いと聞いていたホテルの配膳の仕事を求め、ディズニーランドのところにあるSから始まる5スターホテルで、ケーキなどの部門で2番目ぐらいに偉い人が知り合いにいたので、ホテルの電話番号をもらい、配膳会の番号を聞き、電話して帰国後1週間ぐらいで仕事をみつけた。久しぶりの日本での仕事は緊張する。慣れるまで3ヶ月ぐらいかかったが慣れたらこっちのもん。他のみんなとも仲良くなれて毎日バイトに行くのが楽しみになるぐらい楽しい仕事だった。給料はアルバイトにしては良いほうで月に30万ぐらい稼げたので半年で100万は貯まった。それもすべてパイロットへの貯金。

運命の出会い

アルバイトで楽しい生活をしながらも、やっぱり目標はオーストラリアへ戻ること。そこで、ビザをどのようにして取るか考えた。まず、第一に仕事につかなくてはいけない。仕事を貰う前に客を集めなくちゃだな。パイロットとしての仕事に就くためには自分で客を送りこまなければまず無理だろうということで、日本人の生徒を受け入れてくれる訓練校を探すため、オーストラリア全土に確か30通ぐらい手紙を出した。3校ぐらいから返事が返ってきて西オーストラリア、パースにあるR校を選んだ。
そのR校から資料を請求し、ファックスによるやりとりで書面にして記録を残し、いろいろなやり取りをした。自分の中ではかなり本気だったので、勢いにのって、R校の写真を取る為と、顔を合わせておくためだけにオーストラリアへ渡った。パースのジャンダコットと言う空港はバスで行くとバス停から2キロ近く歩かなくてはいけない。しかし歩いていると通り過ぎる車がよくひろってくれる。その拾ってくれた人の1人が大学に入ることを考えるまでにつながった、シンガポール航空自社養成施設で教官を務めるレイモンド、そしてもうひとりは今、自分が働く訓練校の教官長で日本で英語を教えていたことのあるトニー。しかし、その時はただ知り合いになったというだけで今の状況に至るとは考えてもいなかった。
そして、R校に客を連れてきたら教官として働かせてくれということをしっかりと伝え、帰国。
帰国後、月間OOラインという雑誌を出している出版社に、広告掲載の問い合わせ。親の会社で航空部門を作ってもらい(名前だけ)、自分の金から20数万円を賭けて小さな広告を3ヶ月間掲載。問い合わせは数十軒あったものの、誰一人契約に結びつけることはできなかった。結局広告掲載は失敗に終わり、銀座のパブでアルバイトすることに。

再びオーストラリアへ

毎日が作戦会議。思いついたのは無料説明会。越谷に会場を安く借りて説明会を開いたが友達6人ぐらいしかこなくて失敗に終わる。ある日、いつものように作戦を練っていると前回パースへ行った時に営業してきた留学センターから電話が来た。ひとり興味を持っている人がいるらしい。結局その人は資金が足りなくて免許の取得は断念したのだが、自分はまた勢いでパースヘ行くと決めてしまった。どうせだからアクロバット飛行の資格も取っちゃおう。ということで、またオーストラリアへ。この頃、中国とのビジネスも考えて中小企業団の無料コンサルティングなどにも通ったが、やっぱりやりたいことはただひとつ。空を飛ぶ。金儲けなんてどうでもいいから飛行機を飛ばしたい。生徒はなかなか来ないからオーストラリアで観光客相手に遊覧飛行などの仕事をしようと考え、客集め開始。もちろん、ビジネスビザなしでは仕事はできないが、とにかくビザを取ってもらうためには自分で仕事を作らないと始まらない。充分な客を集めることができるということをアピールしなくてはいけない。

また日本へ

オーストラリア到着数週間後に、ワーキングホリデーで来ていた姉から祖母が亡くなったという情報が入った。ということで、お葬式のために帰国。大変だから帰ってこなくても大丈夫だと言われたが、そういうわけにもいかない。そこで、日にちの帰られないチケットが使えるかどうか、パースにもあるHから始まる有名旅行会社に問い合わせ。答えは無理です、できません。そりゃ、日にちが変更できないと言う条件付で買ってるけど、なんか他の方法とか、アドバイスとかぐらいないかね。売ってしまえばもうしらねえぐらいの態度なので、Q航空に直接聞いてみた。電話にでた彼女はとても親切に自分の身になって対応してくれた。社内のいろんなところに電話で問い合わせをしてくれて自分のもっているチケットで帰国できることになった。ありがとう。
そして、また一週間足らずでオーストラリアへ戻って途中だったアクロバット飛行の訓練を再開。マイレージのポイント貯めておけばよかった。

悪いうわさ

客を集めるために考え出したのが、英語学校との提携で飛行訓練用英語教室。英会話の授業と1時間の飛行訓練を合体させたもの。これは、英語学校側と話しをつけ、共同でチラシを作成。その広告には当校の飛行教官が同乗するので実際に操縦桿を持って操縦を体験することができますと記載。この頃、自分の飛行教官資格の有効期限が切れていたので、違法にならないように自分の名前は出していない。更新するまで他の教官にやってもらうつもりだった。そして、広告をR校のマネージャーに見せて許可をもらい、R校の名前とマークを使うことも許可をもらい、すべては了解済みだった。
ところがある日、けんか口調の女の子から電話があった。「広告見た限りではワーホリの子を対象にしてるように思えるんですけど?」と怒ったような声で。「そうですけど」と答えた。すると女の子はまた、「R校には日本人インストラクターはいないと聞いたんですけど?」と言った。「はい。お客さんが来たら教官としてやらせてもらうという話しなので」と返答すると、「そうですか」と言って会話は終了。
ある日、当時バイトしていたラーメン屋さんの大将から、悪いうわさを聞いたと聞かされた。その内容は、自分が資格を持っていないのに教官として違法で働いているということだった。冗談じゃないよ。まったく。いままでR校で仕事として飛行したこともないし、ましてや資格の有効期限が切れているのに教官として飛行したこともない。だいたいそんな記録に残るようなことを違法でして、これからのパイロット人生を台無しにするほど馬鹿じゃない。そんなことしたら今までの苦労が水の泡だ。
2003年11月12日、R校の飛行教官長とインストラクターセミナーで再開。このうわさについて話をした。そんな変なうわさは耳にしたこと無いから気にすることはないと言われ問題なく解決。

同業者

この業界(航空留学代理店)は他社を悪く言わない会社はあるのだろうか。他の業界でも同じかもしれないが、とにかく他社の悪口をあることないこと言いまくる。結局は金儲けしか頭にない。それが普通なのか?
免許がとれれば仕事があるのか訪ねてもあると言う。実際は資格だけで仕事に就けるような簡単な業界ではないし、ビザの問題もある。免許を取らせてさようなら、あとは自分で頑張って下さいというわけだ。
ある日、雑誌のある人の記事を読んですごいなあとおもい、その最後に何でも相談してください。あなたの夢を応援しますというようなことが書いてあったので、すぐに相談した。仕事がなかなかみつからないので、自分で生徒を集めて送り込もうとおもうんですけど。と。すると返事はやめときなさい。あきらめなさい。だった。夢を応援するどころか、諦めさせんのかよ。金にならないし、ライバルにもなるし、こういうやつは潰しておいたほうがいいということだろう。夢を追うパイロット訓練生、そんなのにつぶされずに頑張って下さい。

ビザ

いつでも問題はビザ。ビザが切れれば帰国しなくてはいけない。そこで、ある日ビジネスビザを取得することを考えていた人から初回相談無料の話しを聞いた。どうやったらビジネスビザがとれるかいろいろ聞こうと思ってさっそく足を運んでみた。そして、履歴書みたいなものを書かされ提出すると、ビジネスビザではなくて永住権が取れるといわれた。その後、空港へ友達を送りにいったときにうれしさのあまりQ航空のカンガルーにみとれてしまった。詳しくは永住権のページ

永住権

永住権があればパイロットをただ働きでしながら生活費を他のアルバイトで稼ぐこともできる。オーストラリア人と同じように制限無しで生活することができる。ただ働きならパイロットの仕事も探せばある。パイロットは経験が物を言う職種なので、ただ働きでも経験が積めればそれでいい。そこから長い下積みが始まる。もちろん、自社養成などに受かってしまえば話しは別。自腹でパイロットになるにはかなりの根気が必要。
いろいろ考えたあげく、大学に行くことにした。もちろん、そこでまた問題はでてくる。学費はどうするか。くわしくは、大学留学のページ

復帰

大学に通いながらアルバイトをしようと思い、いくつかの訓練校に手紙と履歴書を送った。R校とはもうやめた。大きすぎてあるマネージャークラスの人は自分が何をやっているか知っていても、他のマネージャークラスの人は知らない。結局は何回話しをしても話しが伝わらない。上記の悪いうわさもそんな理由から始まったのだろう。結局はでかければいいってものじゃない。
手紙を送った中には、空港までの道でひろってくれたトニーの学校もあった。数日後にトニーから電話があり、学校で会うことになった。トニーの紹介で当時の校長に話しをしてくれて、そこで教官の資格を更新したあとに働かせてくれるかもしれない方向へ向かった。
資格更新には時間が掛かったが、なんとか更新することができた。インストラクターとして資格を取り戻しても、週に1回飛べればいいぐらいしか仕事はなかった。そして殆どただ働き。

下積み

他の訓練校ではどうなのかわからないが、自分の今働いている学校では下っ端の教官は雑用係みたいなもんだ。まあそれでも当時の校長もみんな通ってきた道だから頑張りなさいと言う。だれが雑用係を無給でやりたいか。将来の自分がしっかり見えていないと絶対に途中で嫌になる。
少しずつ仕事は増えていったものの、生活は苦しかった。自分でももちろん客を探した。口コミで結構な数の人にお客さんになってもらっても食っていくにはまだきつかった。大学もあったので、働くことのできる時間は限られている。そんな雑用係の状況が大学を卒業するまで続いた。

昇級

それでもゆっくりゆっくりと飛行時間は貯まっていき、ひとつ上の階級のインストラクターになる試験を受けられるまでに至った。その資格があれば、生徒を単独飛行に出すことができたりと、できることが増え仕事も増える。もちろん、まだまだ上はあるが、やっと一人前のインストラクターとしての仲間入り。嵐の近づく強風の中、試験にはなんとか合格し、これでもうオフィス番や格納庫の床を掃いたり、エンジンオイルのボトルを詰め替えたり猛暑の中で飛行機を洗ったりしなくてすむようになった。と言っても「やれ!」と言われなくなっただけで、時間の空いている時はどんなに昇格しても雑用もちゃんとやりますよ。どんなに昇級しても初心は大切。
アクロバット飛行を教えるための資格もとり、仕事は徐々に増えていき、なんとか生活できるまでに至った。そして、ついに週3日だけフルタイムで雇ってもらうことができるようになった。つまり、雨だろうが、飛べなかろうが3日分の給料は保証される。たったの3日だけの収入でも充分に生活できるし、夏は天候がいいのでほとんどフルタイムで働くことができる。このようにして、やっとパイロットとして普通の生活ができるまでに至りました。ここまでくれば、就職の道は開けてくる。でも最近、双発機を飛ばす機会が出てきたのでとりあえず、まだ今の会社にいてみようと思う。



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